キスは困る。
雨の霞に溶けてしまった後姿を見つめながら、美鶴は軽く唇を噛んだ。
校庭のド真ん中で告白され、以後多数の女子生徒から付きまとわれてストレス膨張中の美鶴にとって、校内でのキスは困る。
いや、誰だって困るだろう。
脅しのつもりか……
聡が推測したとおり、美鶴は聡の帰りなどを待つつもりはなかった。
一緒に帰る気もないし、義理もない。雨に濡れてギャーギャー騒ぐような身なりでもない。
そもそも、雨が降ったから外に出られないなんて、唐渓に通うバカ娘のような考えは持ちたくない。やれ髪が乱れた、やれ靴下が汚れたと喚く彼女たちの姿が目の前に浮かび、思わず吐き気すらおぼえる。
くだらない……
そう思いながら、動くこともできずにいる自分に、腹が立つ。
―――― だって、キスは困るから
瞬間、思わず手で口を押さえた。
忘れようっ!
ブンブンと強く頭を振って、必死に記憶を追い出す。
忘れるんだっ!
気を紛らわせるために必死で他事を探し、ふと胸の内に浮かび上がる。
朝日を浴びて佇む、細身の男性。
片手で口を抑えたまま、ぼんやりと床に視線を落す。
霞流さん、どうしてるだろう?
目の前の、コンクリートが打たれた冷たい床がスクリーンの効果をはたし、そこに霞流の姿が浮かび上がる。
美鶴に、この駅舎の管理を任せた青年。火事で住む場所を失った美鶴親子を短期間であれ保護した上、教科書や制服などまで買い揃えてくれた青年。なぜそこまで親身になってくれるのか? 問いただしても曖昧にしか答えない青年。
この駅舎を市から買い取った祖父と一緒に、数人の使用人と丘の上の豪邸に住む。学生でもなく、かといって普段何をしているのかもわからない青年。
だが、なぜだか悪気を感じない男性。
美鶴は、金持ちが嫌いだ。片親で水商売に精を出す母親との貧乏暮らし。そんな美鶴を卑下する輩が、美鶴は嫌いだ。だから、良家の子女ばかりが通う唐渓高校の生徒は、みんな嫌いだ。
そんなヤツらを見返すつもりで唐渓へ乗り込み、成績で見返してやっている。
だがなぜか、霞流慎二には嫌悪を感じない。
親身になってもらった時も、素直に、ありがたいと思った。
瑠駆真の時は、あんなに腹が立ったのに……
顔を上げた。
まだ聡は戻ってこない。
ガラスの向こう。雨の景色が広がる薄暗い中に、人影は感じられない。
今日は、来ないんだな
別にだからどうだとも思わない。
ハーフ特有の少し彫りの深い、甘い顔立ちを思い出し、ぼんやりと目を細める。
瑠駆真の前に姿を現した黒人の女性。親しげに声をかけてくるその女性は、きっと今は瑠駆真の隣にいるのだろう。
どのような関係なのだろう?
別に気にかけるつもりはないが、再会した時の瑠駆真の表情が、少し気にはなる。
美鶴の手を握ったまま眉を寄せた瑠駆真の顔は、それなりに記憶に残った。いつもは穏やかな瑠駆真が、あそこまではっきりと不快感を表すのも珍しい。
いつもは穏やかな………
その言葉に目を閉じる。
いつもは穏やかだが、いつも穏やかだとは限らない。
そう。瑠駆真でも、我を失う時はある。
自分の言い分に非があるとは思わない。
いきなり高級マンションの一室を案内され、自由に使ってくれと言われても、はいそうですかと納得できるワケがない。
「霞流ってヤツならいいのかよっ!」
語気を荒げる瑠駆真の姿が、まざまざと脳裏に甦る。
「名前で呼んで」
掠れる声が、耳に響く。
名前で………
―――― 美鶴さん
思わず頭を抱えて蹲る。
もうっ! わからないっ!
いろいろな人物のいろいろな言葉が次々と頭の中を駆け巡り、騒がしくて落ち着けない。
その中に、かつての親友の笑顔が見え隠れする。美鶴は再び頭を振る。
忘れたいっ!
思わず叫ぼうと口を開いたところに肩を叩かれて飛び上がった。
「美鶴っ! ………?」
大きな手を宙に彷徨わせたまま、驚きと戸惑いの表情を見せる。
しっとりと濡れた髪の毛は頬にへばりつき、睫毛や唇に艶が光る。水分を含んだシャツは透け、その体格の良さを露見させている。
走って往復したのだろう。少し上気した顔から、小さな瞳がまっすぐに見つめる。整った眉から鼻筋にかけて、水が一筋滴った。
それを無造作に拭いながら、瞳はひたすらこちらを見つめる。
その姿、想いを寄せる女子生徒だったら、一瞬で蕩けてしまうだろう。
「美鶴?」
もう一度問いかける聡に、美鶴はようやく我を取り戻した。
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